「ピアノ演奏芸術―ある教育者の手記 ゲンリッヒ・ネイガウス 著/森松皓子 訳(音楽之友社)」
という書籍に以下のような文章があります。
3つの要素、
まず第1に音楽、第2には演奏者である自分自身、
第3には楽器ピアノをよく知れば知るほど、
そのピアニストはディレッタンドではなく、
名人になる(であろう)という保証はそれだけ強くなる、〜以下略
(抜粋終わり)
「音楽」
「演奏者である自分自身」
「楽器ピアノ」
この3点について熟知することではじめて
名人を目指せるということですが、
それは演奏が目的でもいいでしょうし、
筆者の場合は
ピアノ音楽の作曲や編曲の技術を磨くことを目的に
この3点について積み上げてきたわけです。
◉ ピアノという楽器について熟知する
これら2点については
本Webメディアでも散々取り上げてきたので
なんとなく理解できてきている方も多いはず。
一方、
「演奏者である自分自身について熟知する」
とは、どういうことなのでしょうか。
あらゆる側面のうちのひとつを解説します。
それは、
自分にとって苦痛なことや
体格的に明らかにムリなことや
頑張っても全然伸びていかない部分を切り捨てる、
ということ。
例えば、演奏での例としては
まず「変えられない手の大きさの問題」がありますね。
直接的な言い方ですが、
筆者も含め
手の大きくない方がどんなに頑張っても
12度や13度音程が届く作曲家の作った作品をバリバリ弾くのには
ムリがあります。
それくらい手の大きな演奏家が
バリバリ弾いているのに憧れて
ムリヤリ追従しても
その先に楽しみや喜びや希望はありません。
できる人と同じくらい時間を使っても
自分は一向にできるようになっていかないからです。
我々には「選曲の自由」という武器があるのですから、
自分にとって頑張ってもできないことは認めて
できるところで挑戦すればいい。
筆者自身の昔の経験からもほぼ断言できますが、
たいていの方にとって
今取り組んでいる作品は身分不相応です。
なぜかというと、
人間は自分がもっていないものに憧れて
それに近づいていくから。
単純にレヴェルが高すぎる作品であったり
自分の体格では
ぜったいに満足には演奏できないような作品だったり。
これに気付いて
みずから自分の力を活かせるところへ移動しないと
ほぼ100%楽しい未来はありませんし
上達もしていきません。
「苦痛に耐えて頑張ったら、ヒョウタンからコマ」
なんてことは
まずありませんから。
仮にそんなことがあったとしても
それだったら
苦痛ではないところで
もっとたくさんの果実を手にすればいいのです。
「演奏者である自分自身を知る」とは、
頑張ればできることとそうでないことを管理すること。
これができないと
ネイガウスが言っている3つの条件
をそろえることはできません。
◉ ピアノ演奏芸術―ある教育者の手記 ゲンリッヒ・ネイガウス 著/森松皓子 訳(音楽之友社)
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