【ピアノ】装飾音符の基礎知識:「上からか下からか」に焦点を当てて
► はじめに
ピアノを学ぶうえで避けて通れないのが、装飾音符の演奏法です。特にトリルを含めた装飾音符を「上から始めるべきか、下から始めるべきか」という問題は、多くの演奏者を悩ませてきました。実は、この答えは作曲された時代によって大きく異なります。
本記事では、バロック期から現代まで続く装飾音符の演奏慣習の変遷を、歴史的背景と専門家の見解をもとに詳しく解説します。
► 時代による装飾音符の演奏慣習
‣ ロマン派以降・古典派・バロック期の装飾音符:上からか下からか
トリルも含めた装飾音に関して、「上からか下からか」についての一般的慣習は以下のようになっています:
基本原則:
・ロマン派以降の作品では、装飾音符は原則「下から弾く(主音から始める)」という演奏慣習が確立
・バロックや古典派の作品では、装飾音符は原則「上から弾く(補助音から始める)」という演奏慣習が確立
· やや特殊なショパンのトリルに関する専門家の見解
NHK趣味百科「ショパンを弾く」という番組で、ピアニストのカツァリスが語った重要な証言があります:
大歌手のポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドがサン=サーンスに伝えたところによれば、ショパンがトリルの主要音を示す小音符をつけてる時は、トリルを弾く時、拍と同時に主要音から弾くようにショパンが望んでいた事を意味していたようです。
(抜粋終わり)
ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドという女流声楽家・作曲家は、生前、ショパンとも交流を持っていました。この証言は、ショパンの意図を直接知る貴重な一次資料として注目すべきものです。
「拍と同時に」というタイミングの重要性は言うまでもなく、「主要音から」という部分にも着目しましょう。
ショパン「ノクターン ロ長調 Op.62-1」
譜例(PD楽曲、Sibeliusで作成、67-69小節)
やや特殊な例ですが、このように同音でトリルの前に前打音が付けられている場合には、「同音連打する」という意味ではなく、「主要音から弾き始める」ということを意味しています。特に後期の作品ではこのようにすべきという見解が一般的です。
注意:パデレフスキ版やいくつかの版では、67小節目の前打音は付けられていません
· レオポルド・モーツァルトの教え
モーツァルトの音楽教育の基礎を形成したのは、父レオポルド・モーツァルト。
レオポルドの著書「ヴァイオリン奏法」は、ヴァイオリンの技術指南書以上の意味を持ち、18世紀中期の音楽実践に関する重要な一次資料となっています。特に装飾音に関する記述は、W.A.モーツァルトの作品を解釈するうえで本質的な意味を持ちます。
レオポルドは、トリルを「上音から開始する」という明確な指針を示しており、この原則は、当時の音楽美学における装飾音の機能と密接に関連しています。
・レオポルトモーツァルト ヴァイオリン奏法 [新訳版]
· フンメルの発言より
1828年、フンメルが書籍の中で「世の中の人はいまだにトリルを上から入れている」と記したことは、この演奏習慣が19世紀初頭まで広く継承されていたことを示しています。
モーツァルトの生きていた時代よりずっと “後” のこと。
この証言は、古典派からロマン派への過渡期における演奏実践の変遷を考えるうえで重要な意味を持っています。
‣ 上下逆転したのはいつ頃からか
「ピアノが上手になる人、ならない人」という書籍の中で、ピアニストの小林仁氏は、トリルの弾き方について以下のように解説しています:
すくなくともベートーヴェンの初期くらいまでは、バロックのやり方をそのまま受け継いでいて、一音ないし半音上から弾きはじめられたといってよいでしょう。ところが中期以降の作品になりますと、書かれた音から弾くことになる。その境はどこか、これは厳密にはいえません。
(抜粋終わり)
ベートーヴェンという一人の作曲家の作品においても、時期によって演奏法が変わる可能性があることを示しています。
そして、これまでに流派の差による混乱が生じてきたことや、音楽の流れの中で効果的に響かせることを優先する重要性についても言及されています。
明確な基準がないことから、以下のような方法を提案します:
複数の信頼できる版を比較する
自身が演奏する楽曲について、複数の定評ある楽譜(原典版、校訂版など)を比較検討する
時代様式への理解を深める
作曲家の生きた時代の演奏慣習について、多くの資料で学習する
音楽的文脈を考慮する
楽曲の前後関係、和声状態、メロディラインなどを総合的に判断する
「音楽的文脈を考慮する」とは、例えばどういうことか
市田儀一郎氏は、J.S.バッハ「インヴェンション 第2番 BWV773」の3小節目に出てくるプラルトリラーにおいて、「響きの禁則ができるから」という理由で、「下から」入れる変則を提案しています(「バッハ インヴェンションとシンフォニーア 解釈と演奏法 / 音楽之友社」より)。
この解釈が最善かどうかはさておき、音楽的文脈を考慮することでこのような解釈も生まれてくることに着目しましょう。理論的な原則と実際の音楽的効果のバランスを取ることの重要性を示す好例です。
・ピアノが上手になる人、ならない人 著 : 小林仁 / 春秋社
► さらなる学習のために
装飾音符の演奏について深く学ぶには、以下の文献がおすすめです:
・ヴァイオリン奏法 [新訳版] 著:レオポルド・モーツァルト
・新版 モーツァルト 演奏法と解釈 著 : エファ&パウル・バドゥーラ=スコダ → 詳しいレビューを読む
・クラシックからロマン派へ フンメルのピアノ奏法 著:フンメル → 詳しいレビューを読む
・ショパンのピアニスム その演奏美学をさぐる 著 : 加藤 一郎
これらの文献は、歴史的背景や理論的根拠に基づいた深い考察を提供しているので、目を通してみてください。ただの技術論ではなく、音楽史的な観点からの理解を深めることができます。
► 終わりに
トリルも含めた装飾音符の演奏法は、作曲家の意図、時代の演奏慣習、音楽美学の変遷など、多くの要素が複雑に絡み合った奥深いテーマです。例外も多い分野だからこそ、文献なども通して、可能性の引き出しを知っておくことが必要です。
重要なポイント:
・バロック・古典派では「上から」、ロマン派以降では「下から」が基本
・ただし、例外も多く存在するため、楽曲ごとの検討が必要
・複数の資料を参照し、多視点を考慮したうえで自身での判断が重要
・歴史的演奏慣習への理解が、より深い音楽表現につながる
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