【ピアノ】左手作品から読み解くドライショク:片手で二人分を弾いた男
► はじめに
左手のみで演奏するコンサートを公に行った最初のピアニストとして記録に残るのが、チェコ出身のアレクサンダー・ドライショク(Alexander Dreyschock, 1818–1869)という人物です。彼の名前は現代ではほとんど忘れられていますが、当時のヨーロッパでは「リスト、タールベルクと並ぶ第三の星」とまで称されました。
本記事では、ドライショクが残した2曲の左手作品を軸に、その演奏家としての実像を紐解いてみたいと思います。
► 左手作品から読み解くドライショク
‣「2本の右手を持つ男」と呼ばれるまで
ドライショクは1818年、ボヘミア(現チェコ)のジャークに生まれました。プラハでヴァーツラフ・トマーシェクに師事し、4年間の修業を経て演奏旅行に乗り出します。若いころから左手の技術磨きに異常なまでの情熱を注いでいたことは、当時のピアノ界でも話題になっていました。
老大家ヨハン・バプティスト・クラーマーが彼に向けた言葉が、その評判を端的に物語っています。
「君には左手がない。君には2本の右手がある!」
これは賛辞であると同時に、ドライショクの練習量を示す証言でもあります。
特に有名なエピソードが、ショパン「革命のエチュード」をめぐる話です。師トマーシェクがある日、「いつかピアニストがこの左手のパートをオクターブで演奏する時代が来るだろう」と予言しました。
しかしドライショクはこれを真剣に受け止め、帰宅するとピアノの椅子に腰を据えました。1日12時間、6週間の猛練習の末、オクターブ版「革命」を完成させてステージに立ちます。そのパフォーマンスはライプツィヒ・ゲヴァントハウスでメンデルスゾーンを驚かせるほどのものでした。
後にリストもこの話を聞きつけ、自身のウィーン公演でわざわざ対抗演奏を披露したと伝わっています。ショパン「エチュード Op.25-2」の速いパッセージをオクターブで軽々と弾ききり、「誰がボスか」を示したのです。ライバル関係は後年に和解し、ドライショクはワイマールにリストを訪ねることになります。
‣ パリ上陸と左手演奏のセンセーション
1839年、21歳のドライショクがプロイセンとハノーファーを席巻しているという知らせが、パリの音楽誌に届きます。
「メカニズムと驚異的な指の器用さという点において、彼はもっとも驚くべき奏者である。パリに到着した暁には、リスト、タールベルク、デーラーにとって手強いライバルとなることが保証されている。」(Revue et gazette musicale, 1839年)
1843年にいよいよパリのステージに登場したドライショクは、他の歌手や共演者なしに単独でコンサートを開くという、当時としてはまだ珍しい形式を採りました。その晩の演目に含まれていたのが、「左手のための変奏曲」です。批評家のアンリ・ブランシャールはこれを「聴いて快いというよりは好奇心をそそる一種の力技」と評しながらも、「言葉では言い表せないほどの困難さこそが、この曲の最大の見どころだ」と認めました。
名誉ある同誌はついにドライショクを「ピアノの新三位一体」の一角として位置づけます。リストを御父、タールベルクを御子、そしてドライショクを聖霊に見立てたこの比喩は、ボヘミア出身の24歳の若者が音楽の中心地でいかに衝撃を与えたかを物語っています。
‣ 左手作品2曲を読む
ドライショクが生涯に書いた左手のみのための作品は、確認されている限り2曲です。膨大なピアノ作品を残した彼にしては少数ですが、どちらも彼の技術的側面が色濃く反映されています。
· ① 左手のための変奏曲 Op.22
譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-4小節)

作曲:1843年頃 / シャルロッテ・フィンク嬢に献呈
導入部は朗唱風のパッセージから始まり、アンダンテ・コン・エスプレッシオーネの主題が提示され、アルベルティ・バスの伴奏に乗った叙情的なメロディーに続いて、3つの変奏とフィナーレが展開されます。古典的な変奏様式に沿って、伴奏パターンの細分化、オクターブのバリエーション、トリルが盛り込まれ、拍子は4分の4拍子からフィナーレでは4分の3拍子へと変化します。
全曲を通して音域は幅広く取られていますが、すべて一段の楽譜で書かれているのが特徴と言えるでしょう。音部記号が頻繁に変化するので読みにくさはあるのですが、初めての片手作品の作曲で片手であることを視覚的にも強調する意図があったのかもしれません。実際、後に作曲したOp.129では、一段で書ける箇所も含めて全体が大譜表で記譜されています。
· ②「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」による大変奏曲 Op.129(左手のための)
譜例(PD楽曲、浄書ソフトで作成、1-4小節)

作曲:1854年以前 / ヘッセン=カッセル家のフリードリヒ・ヴィルヘルム妃マリー・アンナ殿下に献呈
タイトルのとおり英国国歌を素材にとった変奏曲です。部分的に、作曲者によるペダルと運指の指示も記されています。
主題は幅広いアルペジオで高らかに歌われ、その後は素早いフィギュレーション(音型)とオクターブが押し寄せてきます。fff のエンディングで幕を閉じるこの曲は、演奏会での華やかな見せ場としても機能する作品と言えるでしょう。
音楽的な構成や主題変容を味わう作品というよりは、超絶技巧そのものを楽しむパフォーマンスピースとしての性格が強いように感じます。
‣ 同時代の証言が語る「矛盾した演奏家」
ドライショクの演奏評は、読む者を混乱させるほど食い違っています。
ハイネは彼のコンサートを振り返り、「人は3×60(姓にドイツ語の「drei(3)」と「Schock(60の束)」が含まれることへの皮肉)のピアニストを聴いているのかと思う。鼓膜が破れそうな勢いだ」と書きました。一方、ロンドンでドライショクに会ったモシェレスは「絶妙に繊細なタッチを持つ」と評しながら、楽譜の読解力と音楽的なスタイルの欠如を惜しんでいます。
ベルリオーズはこの「才能が新鮮で、輝かしく、エネルギッシュな若者」を手放しで称えた一方、若きハンス・フォン・ビューローは「人間の形をした機械、天才の欠落した道化師の擬人化」と辛辣な言葉をウィーンから故郷の親に送っています。
では、これらの評価をどう整理すればいいのでしょうか。
一つ言えるのは、ドライショクが「メカニック面での技術の人」であったということです。両方の左手作品の書き方を見ても、その傾向は読み取れるでしょう。主題の展開や和声的な探究よりも、演奏技術能力そのものを前面に押し出すその構造は、彼が自分の特別なスキルを演奏の核心に置いていたことを物語っています。
ロンドンでの一季節だけで15回のコンサートをこなし、その後12年間にわたってベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、スウェーデンと旅を続けました。ブリュッセルの聴衆は左手作品のアンコールを大声で求め、コペンハーゲンではデンマーク国王がドライショクを特別に遇したと伝わっています。
► 終わりに
1862年にアントン・ルビンシテインからサンクトペテルブルク音楽院への教授招聘を受けたドライショクは、名誉ある地位に就いた半面、ロシアの厳しい気候に体を蝕まれていきます。イタリアへ転地療養に向かったものの、1869年にヴェネツィアで51年の生涯を閉じました。
ウィーンの批評家モーリッツ・ゴットリープ・サフィールは、ドライショクを称えてこんな詩を残しています。
「左手を右手にしてしまう彼を――『両右手博士』と呼ぼう。」
左手専用の作品を公の舞台で演奏した最初のピアニスト、そして左手のみでリストに並ぶと言われた男。2曲という数は少なくとも、その作品には彼の演奏家としての本質が凝縮されています。現代のピアニストがこの曲に取り組むとき、楽譜を追うたびに「彼はこれを本当に所定のテンポで弾いたのか?」という問いが湧いてくるはずです。それこそが、ドライショクの音楽の最大の魅力かもしれません。
参考文献:
・「Piano Music for One Hand」(テオドール・エーデル 著)
・「One Handed」(ドナルド・L・パターソン 編)
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