【ピアノ】左手のみで演奏するJ.S.バッハ「シャコンヌ」編曲版の種類と背景

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【ピアノ】左手のみで演奏するJ.S.バッハ「シャコンヌ」編曲版の種類と背景

► はじめに

 

J.S.バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 BWV1004」の終曲「シャコンヌ」は、数多くのピアノ編曲を生み出してきた名曲です。左手のみで演奏する編曲版も複数存在し、それぞれ異なる成立背景や音楽的アプローチを持っています。

本記事では、代表的な左手版シャコンヌを取り上げ、その編曲者や時代背景、互いの関係性を整理して紹介していきます。

 

► シャコンヌという原曲について

 

シャコンヌは低音主題の反復を土台とした変奏曲で、舞曲としての性格も併せ持つ形式です。J.S.バッハが書いたヴァイオリン独奏版は、単旋律楽器のための楽曲でありながら和声的な厚みと劇的な展開を持つ点で際立っており、後世の作曲家たちが様々な編成へと編み直す対象となってきました。

左手のみで弾く版もそうした編み直しの一つの流れで、特に19世紀後半から20世紀にかけて複数の作曲家・ピアニストが取り組んでいます。

 

► 主な左手版シャコンヌ一覧

‣ ブラームス編(1852年発表 / 1879年単独出版)

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、1-5小節)

J.S.バッハ作曲、ブラームス編曲「シャコンヌ」の楽譜。曲の冒頭の譜例が掲載されている。

ピアノのための5つの練習曲 Fünf Klavierstudien」の第5曲として収められた版で、左手独奏のために書かれています。この曲だけを独立させた楽譜もあらゆる出版社から刊行され、長く親しまれてきました。

編曲の方針としては、ヴァイオリン原曲の音をオクターブ下げて移し替えたうえで、左手のみでのピアノ演奏に適した多少の変更が見られるという、極めて忠実な姿勢が貫かれています。アーティキュレーションや強弱の指示こそブラームス自身の手で書き加えられていますが、音そのものへの改変はあまり多く見られません。変更が見られる箇所のほとんどは、左手のみで効果的に弾くために必要な変更であり、音楽的な趣味で書き換えられたわけではないのが伝わってきます。この保守的とも言える姿勢は、後述するフィリップやヴィトゲンシュタイン、ジチらの編曲とは対照的な点として、しばしば比較の対象に挙げられるところでしょう。

ブラームスがこの編曲をクララ・シューマンに送った際には、ヴァイオリニストが演奏する際の感覚をピアノで追体験できるようにしたい、という意図があったとも伝えられています。J.S.バッハの記譜そのものへの誠実さを保とうとした結果、ピアノで弾いても弦楽器特有の倍音の輝きまでは再現しきれない、という指摘も残されており、この点が後年の両手で演奏するブゾーニ版などピアノ独自の響きを追求した編曲との分かれ道になったとも言えるでしょう。

ブラームスの編曲版は、演奏するための合理的な身体の動きを意識した編曲になっているように感じられます。加えて、一般的な編曲にありがちな、「クレッシェンドしているにもかかわらず、音の厚みが薄くなっていく」などの問題点がありません。音響が充実すべき場面で音楽の厚みを損なわず、創作上のエネルギーを巧みにコントロールした音選びやダイナミクス表記がされており、非常に音楽的な仕上がりになっています。

 

‣ ジチー編(1883年)

 

ハンガリーの伯爵で、若い頃に狩猟事故で右腕を失ったピアニスト、ゲザ・ジチー(1849-1924)による編曲です。1883年に出版されました。

ジチーは原曲から直接編んだのではなく、ヨアヒム・ラフが手がけた両手版を土台として左手用に書き直したとされています。さらにそのラフ版自体、フランツ・リストが未完のまま残した試みに影響を受けていた可能性も指摘されており、複数の編曲の系譜の上に成立した作品と言えるでしょう。

 

‣ フィリップ編(1903年)

 

イシドール・フィリップ(1863-1958)は、パリ音楽院で1893年から1934年まで教鞭を執ったフランス(ハンガリー系)のピアニスト・教育者です。左手のための教材作りにも熱心で、1895年には「Exercices et études techniques」という、全編が左手単独のための練習曲集を出版しています。本来右手で弾かれるために書かれた音型をそのまま左手へ移し替えるという、当時としては新しい発想による教材でした。

1903年には、「4 Etudes d’après Bach バッハによる4つの練習曲」を出版しており、こちらはバッハの無伴奏ソナタ・パルティータから4曲を選んで編曲したものです。シャコンヌはその第4曲にあたり、ブラームス版に比べて技巧的な難度が高い編曲に仕上がっています。

フィリップはシャコンヌに対して新たに左手用編曲をしているにも関わらず、フィリップ自身が監修した「ブラームス編 シャコンヌ」もデュラン社から出版されており、独自のアーティキュレーションなどの書き込みをしている事実から、彼も「ブラームス編 シャコンヌ」の編曲をかなり評価していたことがうかがわれます。

 

‣ ヴィトゲンシュタイン編(1957年)

 

第一次世界大戦での負傷がきっかけで右腕を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタイン(1887-1961)は、ウィーンでの研鑽を経てこの片腕という条件のまま長く国際的な演奏活動を続け、晩年はニューヨークで後進の指導にもあたりました。彼が編んだ「School for the Left Hand」は全3巻からなる大規模な集成で、1957年に出版されています。第1巻は指の独立性を鍛える膨大な練習曲、第2巻は両手用の名曲から旋律を省くなどして作られた応用練習、そして第3巻が実際の演奏会で取り上げた27曲の編曲集という構成です。

この第3巻に収められたシャコンヌは、ブラームス版を出発点としながらも、オクターブの重ねや技巧的に難しいパッセージを大胆に書き加え、かなり踏み込んだ書き換えが施されています。ヴィトゲンシュタイン自身も、内容そのものではなくピアノでの表現方法に手を加えたのだと述べており、ブラームスもきっと気にしないだろうという趣旨の言葉を残しているのも興味深いところでしょう。華やかで聴かせどころの多い性格の強い編曲に仕上がっています。

 

► なぜ、複数の左手版が生まれたのか

 

左手版が次々と生まれた背景には、それぞれ異なる動機があったと考えられます。ジチーやヴィトゲンシュタインのように、実際に右手を使えないピアニスト自身が自分のレパートリーとして編んだケースもあれば、フィリップのように編曲技法そのものへの関心から取り組んだケースもありました。

ブラームス版については一般的に、右手を痛めていたクララ・シューマンのために編曲されたとされており、クララがブラームスに宛てて送った感謝の手紙の内容も資料として残されています。

一方、ブラームスが左手作品に関心を抱く素地は、それ以前から存在していた可能性もあります。

クララが右手を痛めていたからではなく、ブラームス自身のシャコンヌ及び左手演奏に対する美的な興味から施された編曲であるという資料も残されています。

かつてブラームスが音楽指導を受けていた、エードゥアルト・マルクスゼン(Eduard Marxsen, 1806–1887)は1852年に「ブラームス編 シャコンヌ」が発表されるよりも前の時期に既に左手のみで演奏する作品を数曲書いています。また、マルクスゼンの諸作品は両手のための作品も含め「教育用に書かれた作品」が大部分を占めることから、結果としてどちらか片方の手に比重を置いた作品も多く存在します。したがって、「左手の演奏技巧」に加えて「左手独奏のための楽曲」という分野自体には師の作品に影響を受けブラームスが興味を抱いていた可能性もあると言えるでしょう。

さらに、ブラームスがシャコンヌに対して特別な愛情を持っていたという資料も存在します。

これらを踏まえると、クララが右手を痛めていたのと同時期に、ブラームスは自分自身の美的な興味からシャコンヌを左手独奏版に編曲するということを想起したと考えられます。

 

► 近年の動向:ルビー・モーガン編

 

こうした左手版の系譜は19〜20世紀だけで途切れたわけではなく、近年でも新たな校訂や出版が続いています。その一例が、リング製本の楽譜として2021年より出版されている、Ruby Morgan(ルビー・モーガン, ジストニアと戦った経験をもつピアニスト)による版です。

巻頭の解説では、ヴィトゲンシュタイン版を「ブゾーニというフィルターを通したブラームス」と位置づけ、ロマン派様式への愛着と華やかなピアノ書法への志向の両方が反映された編曲だと評しています。これを踏まえてルビー・モーガン自身が同アンソロジーに収めた編曲は、ブラームス版を基礎としながらヴィトゲンシュタインの発想も部分的に取り入れています。同時にバッハの自筆譜にあるフレージングへ立ち返り、ヴァイオリニストの演奏が持つドラマと技巧性をピアノで再現しようとするピアニスティックな音型も加えた、いわば両者の中間に位置する編曲だと言えるでしょう。音の数で言えば、忠実なブラームス版よりは多く書き加えられているものの、書き換えの幅が大きいヴィトゲンシュタイン版ほど大胆ではなく、原典の骨格を保ったままほどよく拡張された版という印象を受けます。

学習面での配慮も随所に見られ、部分的に運指やペダリングの指示が書き込まれており、中にはハーフペダルを指定した箇所まであります。また、装飾としてのトリルをそのまま記号で示すのではなく、実際に弾くべき音符として書き出してくれている部分もあり、初めてこの曲に取り組む奏者にとっても読み解きやすい工夫がなされた版になっていると感じました。

このように、新しく出版される楽譜からも、シャコンヌという作品とその左手版の系譜が現在も研究・再評価され続けていることがうかがえます。

 

► 終わりに

 

左手のみで演奏するシャコンヌは、単に「片手で弾ける編曲」というだけでなく、編曲者ごとの音楽観や原典への向き合い方が色濃く反映されたジャンルです。同じ原曲を出発点としながら、編曲者によってこれほど異なるアプローチが生まれている点に、シャコンヌという楽曲自体の懐の深さを感じます。興味を持たれた方は、ぜひ複数の版を聴き比べてみてはいかがでしょうか。

 

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