【ピアノ】なぜ、ラヴェルの左手協奏曲は傑作なのか?:左手音楽史から読み解く

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【ピアノ】なぜ、ラヴェルの左手協奏曲は傑作なのか?:左手音楽史から読み解く

► はじめに

 

ラヴェル「左手のためのピアノ協奏曲」

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、ソロの初導入部 29-33小節)

ラヴェル「左手のためのピアノ協奏曲」29〜33小節の楽譜(2台ピアノ版)。長い序奏の末にピアノ独奏が初登場する場面。

※ラヴェル自身によるピアノ伴奏版編曲(ソロ+ピアノ伴奏形式:2台ピアノ)から浄書

 

・作曲年:1929-1930年
・演奏時間:約18-20分

ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は、その「始まり方」が既にひとつのメッセージになっています。これは新しい時代の幕開けというより、制限の中で戦い続けることを選んだ一人の人間への、作曲家からの応答でした。

 

► 左手音楽史から読み解く

‣ 委嘱の背景——ヴィトゲンシュタインとラヴェルの出会い

 

第一次世界大戦での負傷がきっかけで右腕を切断したオーストリアのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタイン(1887-1961)は、戦後に片手ピアニストとして演奏活動を再開しました。哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの兄にあたります。

裕福な家柄であった彼は、自費で著名な作曲家たちに新作を委嘱しています。リヒャルト・シュトラウス、エーリヒ・コルンゴルト、フランツ・シュミット、パウル・ヒンデミット、セルゲイ・プロコフィエフ、ベンジャミン・ブリテン——多彩な顔ぶれに向けて、左手のための作品が次々と生まれました。

ラヴェルとの出会いは1929年のウィーンとされています。ヴィトゲンシュタインがリヒャルト・シュトラウスの「パナテネン行進曲 左手ピアノとオーケストラのためのパッサカリア形式による交響的練習曲 Op.74」を演奏するのをラヴェルが客席で聴き、そこで新作の可能性について話し合われたようです。

 

‣ ラヴェル以前の左手作品——研究の痕跡

 

ラヴェル自身はこの仕事を非常に真剣に受け止め、先行作品を丁寧に調べています。参照したとされる作曲家は、サン=サーンス、ゴドフスキー、ツェルニー、アルカン、スクリャービンなどです。

こういった作曲家の作品以外にも先行作品はありますが、その多くは、短い練習曲的な小品か、両手作品の「翻訳」に留まっていました。「左手だけで書かれたから仕方ない」という感覚が漂うものも少なくありません。ラヴェルが挑もうとしたのは、そこからの脱却でした。

ラヴェル自身は後にこう述べています。「左手のためだけに書かれたからといって、テクスチュアが薄いという感じを与えたくない」と。ペダルの効果やあらゆる技巧を使い尽くして書いたピアノ独奏導入部は、まさにその言葉通りの密度を持っています。

 

‣ この作品の独自性

 

この協奏曲がそれ以前の左手作品と一線を画す点は複数ありますが、最大の革新は、左手作品を「特殊なレパートリー」から「本格的な協奏曲」へ押し上げたことにあります。

 

左手のオーケストラとの対等な関係

冒頭はコントラバスとチェロの低弦が静かなアルペジオを奏で、コントラファゴット、ファゴット、ホルンへと受け渡されながら主題が立ち上がります。やがて独奏ピアノが登場するとき、それはオーケストラの「お膳立て」を引き継ぐのではなく、対話の場に踏み込む形になっています。まるで制限の中で戦い続けることを選んだ一人の人間を象徴するかのようなソロの登場は、初演当時から相当のインパクトがあったことでしょう。ラヴェルは片腕の演奏家を「補われる存在」ではなく、「オーケストラと対峙する英雄」として描いたようにも感じられます。

単一楽章という構造選択と持続的な構造

曲は切れ目のない一楽章形式で、大まかにABAʼの三部形式として捉えられます。短い練習曲が多かった左手音楽の歴史の中で、協奏曲規模の “持続的な” 構造を実現したのは珍しいことでした。

ジャズ的語法の本格的な統合

中間部はアレグロとなり、ジャズ的な書法が展開されます。シンコペーションや平行五度に加え、ペンタトニックや教会旋法を思わせる音遣いも随所に現れます。ラヴェルが「ヴァイオリンソナタ ト長調」などで探求してきたジャズの語法が、ここで左手協奏曲という形式に完全に溶け込んでいます。

 

‣ なぜ、ラヴェル作品だけが突出して有名になったのか

 

ヴィトゲンシュタインが委嘱した作品群の中で今日最も広く演奏されているのは、ラヴェルのこの協奏曲です。プロコフィエフの「ピアノ協奏曲 第4番 Op.53」やブリテンの「ディヴァージョンズ Op.21」も優れた作品ですが、演奏頻度では大きな差があります。

理由はいくつか考えられます。

一つは、左手のみで演奏するピアニストを「ソリスト」として魅せる作品としての完成度でしょう。ラヴェルは単に「左手用に書いた」のではなく、左手というテクスチュアを最大限に引き出す書法を追求しました。音響的な充実度——これは「制限への対処」ではなく、最初からそのように聴こえるよう設計されています。ソリストとオーケストラの関係性という点では、ラヴェル作品ほど独奏者の存在感を前面に押し出した作品は多くありません。

もう一つは、ヴィトゲンシュタインとラヴェルの緊張関係が、かえって作品の評判を高めたという逆説的な側面があります。ヴィトゲンシュタインは自分の解釈でカデンツァを改変し、管弦楽部分を変更して演奏しました。ラヴェルはこれに強く反発し、「楽譜通りに弾いてほしい」と主張しました。この対立は当時から知られており、「作曲家が絶対に守りたかった作品」という印象を強めています。プロコフィエフの協奏曲ではヴィトゲンシュタインは初演自体を拒否したので、このような社会的な緊張関係が生まれるまでもなかったのです。

加えて、ヴィトゲンシュタインの独占演奏権が1937年に切れた後、ジャック・フェヴリエ、ロベール・カサドシュら優れたピアニストが次々と取り上げたことも大きいでしょう。カサドシュは1937年末から1971年の間にこの曲を170回以上演奏したと言われており、これはヴィトゲンシュタインの演奏回数の約2倍にあたります。

左手作品の歴史は、作曲家だけで作られたものではありません。どんなときも演奏家の存在が、作品の誕生と普及の両方を支えてきたわけです。

 

‣ ラヴェルとヴィトゲンシュタインの対立——楽譜を巡る闘い

 

ラヴェルがこの協奏曲におけるヴィトゲンシュタインの演奏を聴いたとき、その場にいたマルグリット・ロンの記述によれば、ラヴェルの表情は演奏中に徐々に曇っていき、終演後に意見の相違が表面化したといいます。ヴィトゲンシュタインはオーケストラ部分を変更し、独自のカデンツァを加え、ラヴェルが書いたものとは別の作品として演奏していました。

ラヴェルは手紙を送り、楽譜通りの演奏を求めます。ヴィトゲンシュタインは「演奏家はみな修正を加えるものだ」と返答しました。この対立は公にはならないまま続き、ラヴェルは1937年に亡くなるまで、ヴィトゲンシュタインのやり方に最後まで納得していませんでした。

注目すべきは、ヴィトゲンシュタイン自身が後年、「この協奏曲はラヴェルが書いた中で最も難しくない作品だ」と述べている点です。ラヴェルへの評価と自身の演奏解釈への自信が、複雑に交差していたことが分かります。

 

‣ 左手ピアノ史における位置付け

 

この協奏曲が書かれた1929-1930年当時、左手専用の大規模な作品はあまり存在しませんでした。

ラヴェルの協奏曲は、左手音楽を「一つの独立した音楽語法」へと押し上げた作品として位置付けられています。その後に書かれた左手作品のほとんどが、意識的にせよ無意識にせよ、この協奏曲の存在を前提としていると言えます。

また、音楽的な内容の充実に加え、「ヴィトゲンシュタインへの委嘱作品」という文脈が左手音楽全体の歴史的注目度を高めた面もあります。彼の存在がなければ、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲 第4番 Op.53(1931年作曲)」やブリテンの「ディヴァージョンズ Op.21(1940年作曲)」も生まれていないかもしれません。

また、左手のためのピアノ音楽の分野で最も知名度が高いのは、明らかにラヴェルの協奏曲であり、ピアノ音楽の特定の分野で一番知られている作品が「ソロ作品ではない」というのも見逃せません。

左手ピアノ音楽史を「ラヴェル以前」と「ラヴェル以後」に分けて考えることも、決して誇張ではないでしょう。

 

►「聴きどころ」——ピアノが登場する瞬間

 

譜例(PD作品、浄書ソフトで作成、ソロの初導入部 29-33小節)

ラヴェル「左手のためのピアノ協奏曲」29〜33小節の楽譜(2台ピアノ版)。長い序奏の末にピアノ独奏が初登場する場面。

※ラヴェル自身によるピアノ伴奏版編曲(ソロ+ピアノ伴奏形式:2台ピアノ)から浄書

 

曲の前半にあたる箇所で、長い序奏の末にピアノ独奏が姿を現す場面があります。オーケストラが大きなクレッシェンドで頂点に達したのち、突然音が断ち切られ、静寂の中にピアノが単独で入ってきます。

この構造については、ラヴェルと親交が深かったピアニスト、マルグリット・ロンが書籍「ラヴェル―回想のピアノ」の中で印象的な言葉を残しました。

(以下、抜粋)
頂上にくると突然決裂して、ピアノの開始に対して雄大な背景を準備します。それは麻痺したような静けさが、征服者の到来を告げるかのようです。
(抜粋終わり)

 

この表現は誇張ではありません。圧倒的な音響の後に訪れる無音、そして左手ソロの登場。「これは制約下の演奏だ」という一般的な意識は、この瞬間にきれいに消え去ります。

 

・ラヴェル―回想のピアノ 著:マルグリット・ロン 訳:北原道彦、藤村久美子 / 音楽之友社

 

► ヴィトゲンシュタイン自身の演奏で聴く

 

この協奏曲の「元の依頼主」による演奏を、現代に聴けるのは貴重なことです。モノラル録音ではありますが、ヴィトゲンシュタインが弾く左手音楽の凄みは十分に伝わってきます。

 

推奨音源

“Mit links” — Der Pianist Paul Wittgenstein

ラヴェル「左手のための協奏曲」のほか、ブリテン「左手ピアノと管弦楽のための主題と変奏 ディヴァージョンズ Op.21」も収録。ブリテンとの比較試聴にも適した一枚です。

 

► 終わりに

 

ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は、ただ単に右腕を失ったピアニストへの対応として書かれた作品ではありません。左手という手段を通じて、音楽として完全に自立した世界を作り出そうとした試みです。ヴィトゲンシュタインへの委嘱、先行作品の研究、ヴィトゲンシュタインとの対立——これらの文脈を知ったうえで聴き直すと、冒頭の静かなコントラバスの響きから、また違って聴こえてくるかもしれません。

 

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