【ピアノ】ジェラルド・ムーア引退コンサート最後の演奏「音楽に寄せて」ピアノソロ版を解説
► はじめに
ジェラルド・ムーア(Gerald Moore, 1899–1987)。20世紀最高の伴奏ピアニストの一人と称えられる彼は、フィッシャー=ディースカウ、シュワルツコップをはじめとする名歌手たちと数え切れないほどの録音を残し、伴奏という仕事に新たな地平を切り拓きました。
1967年2月20日、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホール。ムーアは、この日、自身の引退記念コンサート(Farewell Concert)を行いました。
プログラムの最後、彼が選んだのはシューベルトの歌曲「音楽に寄せて(An die Musik)D.547」。しかし、この曲を歌う歌手はいませんでした。ムーア自身が編曲したピアノソロ版で、たった一人、静かに演奏したのです。
このエピソードには、音楽史に残る深い感動があります。
►「音楽に寄せて」とは
シューベルトが1817年に作曲したこの歌曲は、詩人フランツ・フォン・ショーバーの詩に曲をつけたものです。歌詞は、音楽という芸術そのものへの感謝を歌っています。
・「尊き芸術よ、どれほど暗い時に、あなたは私の心を温かい愛で満たしてくれたことか」
・「より良き世界へと私を運んでくれた、尊き芸術よ、私はあなたに感謝する」
まさに、生涯を音楽に捧げた人間が引退コンサートに選ぶにふさわしい、普遍的な賛歌です。
► 引退コンサートの舞台裏
‣ 世界最高峰の歌手たちが集結
この引退コンサートには、ムーアを「伴奏者(黒子)」ではなく真の「共演者」として敬愛する、世界トップクラスの3人の歌手が駆けつけました。
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ソプラノ)
エリザベート・シュワルツコップ(ソプラノ)
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
彼らはそれぞれムーアと長年にわたって共演を重ね、数々の名録音を残してきました。この日、彼らはムーアへの敬意と感謝を込めて、最高の演奏を披露したのです。
‣ なぜ、ピアノソロだったのか
通常、「音楽に寄せて」は歌とピアノで演奏されます。しかし、ムーアはコンサートの最後、アンコールとしてこの曲を一人で弾くことを選びました。
なぜでしょうか。
彼は生涯、何千回、何万回と歌手を支え続けてきました。常に「脇役」として、音楽家たちの輝きを引き立ててきた人生でした。しかしこの最後の瞬間、ムーアは自分の言葉——ピアノの音——だけで語りかけることを選んだわけです。
歌詞はありません。歌手もいません。それでも、聴衆の心には「尊き芸術よ、私はお前に感謝する」という詩が鮮やかに響き渡りました。それは技巧を誇示するものではなく、シューベルトの書いた音符一つひとつを慈しむような、極めてシンプルで誠実な演奏だったと伝えられています(音源で聴くことも可能)。
ムーアの編曲は、原曲のピアノ伴奏部分をベースに、歌のメロディをそっと載せるというシンプルな構造です。装飾や技巧的なパッセージを避け、あくまで「音楽への感謝」というメッセージを純粋に伝えることに徹しています。
► 歴史的名盤
この引退コンサートの模様は録音されており、現在でも聴くことができます。
Tribute To Gerald Moore ジェラルド・ムーア フェアウェル・コンサート
・レーベル:EMI Classics
・入手方法:Amazon(CD / MP3ダウンロード / ストリーミング対応)
・収録内容:シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴォルフなどの歌曲と、「音楽に寄せて」ピアノソロ版
このアルバムは、20世紀の声楽芸術を記録した貴重な音源であり、特に最後のピアノソロは、伴奏者としての人生を全うしたムーアらしい、究極の「幕引き」として今も語り継がれています。
► 楽譜
ジェラルド・ムーアが演奏した編曲版は、残念ながら正式に楽譜化されていません。しかし、同じ方向性——「原曲の伴奏を基に歌のメロディを添えたシンプルな編曲」——での演奏を希望される方には、以下の楽譜を紹介します。
【ピアノ】シューベルト「音楽に寄せて(An die Musik)」:ピアノソロ編曲楽譜提供
こちらは筆者がムーアのこの演奏から影響を受けて編曲したものです。耳コピではなく独自のアレンジなので、ムーア版とは異なる箇所がありますが、「音楽への感謝を静かに語る」というコンセプトは共有しています。
► 終わりに
伴奏者という役割は、しばしば「脇役」「黒子」と見なされがちです。しかしジェラルド・ムーアは、その生涯を通じて、伴奏もまた一つの芸術であることを証明し続けました。
引退コンサートの最後に一人で弾いた「音楽に寄せて」は、彼が音楽そのものに捧げた、言葉にならない感謝状でした。歌手を支え続けた手が、最後には音楽という偉大な存在そのものに語りかける——それは、音楽家としての最も純粋な姿だったのではないでしょうか。
このエピソードは、音楽を愛するすべての方々に知っておいてほしいと思います。
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