【ピアノ】左手ピアノ作品史をたどる一枚:ヴァクフゼン「Für die linke Hand allein」レビュー
► はじめに
片手だけで演奏するという制約のなかから生まれた「左手のためのピアノ作品」というジャンルは、意外にも長く豊かな歴史を持ちます。
今回紹介するのは、ドイツのピアニスト、アニヤ・ヴァクフゼンが2002年に録音した「Für die linke Hand allein(左手のみのために)」というアルバムです。左手作品の音楽史をたどるような選曲が魅力で、このジャンルに興味を持ちはじめた方にとっても、すでに親しんでいる方にとっても、発見の多い一枚になるでしょう。
・演奏:Anja Wackhusen(アニヤ・ヴァクフゼン)
・リリース年:2002年(2016年 再発盤)
・レーベル:Charade(輸入盤)
・総収録時間:66分
・録音:2002年10月7〜9日、ハンブルク フリードリヒ=エーベルト=ハレ(ステレオ/デジタル/セッション)
・アマゾンでは、CD・MP3ダウンロード・ストリーミングのすべての方法で購入可能
Anja Wackhusen: Für die linke Hand allein
► 演奏者 アニヤ・ヴァクフゼンについて
アニヤ・ヴァクフゼンは、ドイツを拠点に活動するピアニストです。ニーダーザクセン州にある音楽学校「Musikschule an der Oste」の講師として教育活動にも携わっている記録があります。
この「Für die linke Hand allein」は、彼女が左手作品というジャンルに向き合った意欲作で、丁寧な選曲と落ち着いた演奏解釈が、このアルバムに独特の価値を与えています。
► 収録内容の詳細
‣ 収録曲一覧
J.S.バッハ(1685-1750)/ブラームス(1833-1897)編:シャコンヌ
ベルガー(1777-1839):12の練習曲 Op.12 より 第9曲
ヤーコプ・シュミット(1803-1853):左手のための旋律的練習曲 Op.330-4
ライネッケ(1824-1910):左手のためのピアノソナタ Op.179 第2楽章
マルクスゼン(1806-1887):3つの即興曲「ドライショクへのオマージュ」Op.33 より 第2曲
リスト(1811-1886):ハンガリーの神 S.543 R.214(左手版)
サン=サーンス(1835-1921):左手のための6つのエチュード Op.135 より 第5曲「エレジー」
スクリャービン(1872-1915):左手のための2つの小品 Op.9
レシェティツキ(1830-1915):「ランメルモールのルチア」のアンダンテ・フィナーレ Op.13
ポンセ(1882-1948):前奏曲とフーガ
ポンセ:マルグレ・トゥー
‣ アルバムの特徴:左手作品の音楽史をたどれる構成
· 左手作品の音楽史をたどる選曲
このアルバムの最大の魅力は、演奏そのものと同等か、それ以上に選曲の充実にあると言えるでしょう。J.S.バッハの時代からメキシコのポンセに至るまで、おおよそ時代順に収録されており、左手作品というジャンルの歴史をひとつの流れとして眺めることができる構成です。
左手作品は、その成立の経緯から、近現代の作品数が多くなりがちなジャンルです。にもかかわらず、このアルバムはバロックからロマン派にかけての作品を中心に据えており、普段あまり目にしない時代帯の左手作品をまとめて聴けるように選曲されています。最も後の時代のポンセも、後期ロマン派から近現代への過渡期に位置する作曲家であり、アルバム全体の時代的なまとまりも損なわれていません。
· 左手作品史上の重要な作品が含まれている
収録曲の中には、左手作品の歴史において欠かせない名前や作品が登場します。
ベルガーの「12の練習曲 Op.12 より 第9曲」は、左手のみのために書かれた作品としての最初期の例の一つで、歴史的に重要な一曲です。また、マルクスゼンの『3つの即興曲「ドライショクへのオマージュ」Op.33 より 第2曲』は、当時ヨーロッパの演奏界において「2本の右手を持つ男」と讃えられた左手の名手、アレクサンダー・ドライショクへの献呈作品です。ドライショクは左手作品の歴史を語るうえでのキーパーソンであり、この曲の存在がアルバムに歴史的な奥行きをもたらしていると感じました。
こうした「地味だけれども重要な」作品を丁寧に選んでいる点が、このアルバムの価値の一つと言えます。
· オリジナル作品と編曲作品のバランス
左手オリジナル作品は一般的に「上級向け」が多いため、様々なニーズに応えて幅広い難易度の編曲作品が生み出されてきた歴史があります。したがって、編曲もので固められたアルバムもリリースされてきました。
一方、本アルバムで収録された11曲は、最初から左手のために書かれたオリジナル作品(8曲)と、他の演奏形態の作品を左手用に編曲したもの(3曲)で構成されており、ジャンル全体のバランスやオリジナル作品を通した音楽史の伝達を表現テーマとした選曲になっていると考えられます。
‣ 演奏の印象
演奏全体は落ち着いた趣きで統一されており、激しさや派手さよりも、作品の内省的な側面を引き出すことに力点が置かれているように感じました。とりわけスクリャービン「左手のための小品 Op.9」は、テンポを抑えた祈りにも似た演奏で、この作曲家の神秘的な音楽語法が静かに広がります。
リストの歌曲をもとにした作曲家自身による編曲作品「ハンガリーの神(左手版)」の演奏においては、激しさはなく、落ち着いたテンポで表現しています。この作品は、原曲を聴けばアニヤ・ヴァクフゼンの解釈の適切さが理解できるのですが、リスト作品というだけで技巧的な側面が強調される演奏も少なくありません。本演奏はそうした方向性とは異なり、作品の持つ宗教的・瞑想的な側面を丁寧に描き出しています。
選曲自体も、軽快な作品や攻撃的な作品はなく、アルバムを通して一貫した雰囲気があります。作品一つひとつを丁寧に届けようとする姿勢が、選曲の誠実さと呼応しているのかもしれません。
► こんな方におすすめ
・左手作品というジャンルに初めて触れてみたい方
・バロック〜ロマン派の左手作品を聴いてみたい方(近現代に偏りがちなジャンルのなかでは貴重な選曲)
・歴史的に意義ある作品を探している方
► 終わりに
「Für die linke Hand allein」は、演奏の質と選曲の歴史的な奥行きが合わさった、左手ピアノ作品の入門としても、コレクションの一枚としても価値ある録音です。ベルガーやマルクスゼンといった名前は日本では馴染みが薄いかもしれませんが、このアルバムを通じて、左手作品というジャンルがいかに多彩な歴史を持つかを感じ取ることができます。普段のクラシック鑑賞に、少し違う角度を加えてみたいときにもぴったりの一枚と言えるでしょう。
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Anja Wackhusen: Für die linke Hand allein
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