【ピアノ】バックハウスの「ベートーヴェン ピアノソナタ全集(モノラル録音版)」レビュー
► はじめに
「ベートーヴェン弾き」と聞いて、どのピアニストを思い浮かべるでしょうか。名だたる巨匠たちがそれぞれの解釈でベートーヴェンの世界を描き出してきました。ピアニストによってそれぞれ個性があり素晴らしく、聴く人によって「自分にとっての一番」は変わるものです。
ピアノソナタの演奏において筆者が自信を持っておすすめするのは、ヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)です。とても有名なピアニストであるにも関わらず、「バックハウスのベートーヴェンは聴いたことない」という方が意外に多く、驚くことがあります。
ベートーヴェン ピアノソナタ全集 モノラル録音版 演奏:バックハウス / ポリドール・レコード
► 本アルバムの基本情報
‣ 録音の歴史的背景
このCDは、モノラル録音時代のアナログLPで行われた全集レコーディングのCD復刻盤です。元のモノラルLPでの全集を、バックハウスは1950年から1954年の5年間で完成させています。この時期、バックハウスは66歳から70歳という円熟期にあり、技術的な完成度と深い音楽的洞察が見事に融合した演奏を聴くことができます。
当然ですが、録音自体は古いものです。しかし、演奏は申し分なく「一生モノ」になるアルバムであることは間違いありません。
‣ 充実した解説書の魅力
このアルバムの大きな特徴の一つが、70ページ近いブックレットの充実度です。美しいホワイトの冊子には、以下のような多視点からの解説が収録されており、それぞれ別々の専門家が執筆しています:
・このアルバムについて:録音の経緯や復刻に関する情報
・バックハウスについて:生い立ちからピアニストとしての生涯とキャリア
・ベートーヴェンのピアノソナタについて:作品群全体の概観
・全曲解説:譜例付きで、各ソナタの特徴を最低限押さえた簡潔な解説
したがって、このアルバムを楽しむための情報がすべて入っています。
バックハウスが好んだ言葉や、彼のサイン、また、彼がベートーヴェンを多く弾く理由についても、インタビューからの引用が掲載されています。その音楽観と演奏哲学を知ることができる資料となっています。
► バックハウスのベートーヴェン解釈の特徴
‣ ドイツ的な硬質さと構築美
バックハウスの演奏にはドイツらしい硬さがあります。しかし、それは決して冷たさや無機質さを意味するのではありません。むしろ、ベートーヴェンのピアノソナタの特徴——古典派からロマン派への橋渡しとしての性格、建築的な構造美、そして精神的な深さ——を見事に引き立てています。
‣ 初期ソナタの魅力
特におすすめしたいのが初期ソナタ(第1番から第7番あたり)の演奏です。ロマン派の色が濃くなってくる前のこれらの作品は、ハイドンなどの影響を残しつつも、若きベートーヴェンの革新性が随所に見られる重要な作品群です。
バックハウスのアプローチは、これらの作品の古典的な様式美を活かし、趣味悪い表現を排除した渋い演奏でまとめています。一度は聴いておきましょう。
‣ 演奏解釈の特徴:反復記号の扱い
バックハウスのこの録音では、各種反復記号による繰り返しが多くの作品において省略されています。これにより、演奏時間がコンパクトになり、全集として非常に聴きやすい構成となっています。
現代の演奏では提示部の反復を行うことが一般的になっていますが、この時代の録音では省略されることが多く、それはそれで一つの解釈として尊重されるべきものです。むしろ、凝縮された演奏は作品の骨格をより明確に示してくれる面もあります。
► 印象的な2つの楽章
筆者が特に研究した2つの作品があります:
・「ピアノソナタ 第7番 ニ長調 Op.10-3 第1楽章」
・「ピアノソナタ 第14番 月光 嬰ハ短調 Op.27-2 第3楽章」
この2作品の「出始め」は独特の雰囲気を持っており、どうやったらこの質感が出せるのだろうと、随分と研究しました。
例えば、「月光ソナタ 第3楽章」の出始めでは、最初の1拍分のみわずかなテンポの引き伸ばしがあります。その後にテンポになることで、ストレートに弾き始めたり極端なタメが入る演奏とは異なる味わいが出ています。
► 別バージョンについて
バックハウスは、このモノラル録音による全集の後、ステレオ録音時代にも別の全集を残しています。こちらは、1958年から晩年までかけて録音されたもので、ハンマークラヴィーアのみ録音できずに亡くなっています。
両方の全集を聴き比べることで、バックハウスの解釈の変化を追うことができ、ベートーヴェンのピアノソナタに対する理解もより深まるでしょう。
►「〜弾き」という呼称について
「〜弾き」という言い方は、本来あまり良い考え方ではないのかもしれません。ある程度の固定観念を持って聴いてしまいがちだからです。
実際、故・園田高弘氏は「ショパン弾き」と言われることを嫌がったそうです(2000年代頭頃に故・湯浅譲二氏がゲスト出演したNHKのクラシック番組での情報)。確かに、多くのピアニストは幅広いレパートリーで素晴らしい演奏を聴かせてくれるものです。
しかし、それでもあえて「ベートーヴェン弾き」と言ってでも、バックハウスのピアノソナタを聴くことはおすすめしたいと思います。
► 21世紀に生きる我々への財産
かつて巨匠が残してくれた録音が聴けることは、21世紀に生きる我々にとっての財産です。
バックハウスは生前、世界中で演奏活動を行い、多くの聴衆を魅了しました。しかし、録音技術のおかげで、我々は時空を超えて、彼の芸術に触れることができます。それも、単発の録音ではなく、ベートーヴェンのピアノソナタ全32曲という壮大な作品群を、一人のピアニストの統一された視点で聴けるという贅沢な体験です。
現代は様々な演奏家の録音が手軽に聴ける時代ですが、だからこそ、このような歴史的名盤に立ち返ることの価値があると言えるでしょう。
► 終わりに
このバックハウスによる「ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集」は、以下の点でおすすめできます:
・円熟期の巨匠による統一された解釈:66歳から70歳という充実期の演奏
・ドイツ ピアニズムの正統派:硬質で明晰、構造美を重視した演奏
・充実した解説書:70ページ近いブックレットで作品理解が深まる
・コンパクトな演奏時間:反復を省略し、聴きやすい構成
・歴史的価値:1950年代の貴重な録音の復刻
音質は現代の録音に比べれば劣りますが、演奏の価値はそれを補って余りあるものです。ベートーヴェンのピアノソナタに初めて触れる方にも、すでに様々な演奏を聴いてきた方にも、新たな発見と感動をもたらしてくれる「一生モノ」のアルバムと言えるでしょう。
クラシック音楽の歴史において、バックハウスのベートーヴェンは一つの基準点となっています。この全集を聴くことで、その理由が必ず理解できるはずです。
ベートーヴェン ピアノソナタ全集 モノラル録音版 演奏:バックハウス / ポリドール・レコード
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