【ピアノ】インヴェンションからシンフォニアへ:知っておくべき技術的変化点
► はじめに
J.S.バッハのインヴェンションで2声の対位法に慣れ親しんだ後にシンフォニアに進む際、3声という新たな次元が生み出す技術的課題は多岐にわたります。指導者として把握しておきたい主要な変化点と指導のポイントをまとめました。
「3声のシンフォニア」へ進もうと思っても、3声の最初の1曲で挫折してしまう方が多いのが現状です。1声部増えただけで運指などが一気に複雑となり、演奏時にも頭が混乱して「おおむね弾ける」というレベルまでもっていくのが大変に感じるのが主な原因です。
► 独学者の方へ
この記事は指導者向けに書かれていますが、独学でシンフォニアに取り組む方にとっても重要な内容です。「生徒が直面する課題」を「自分が直面する課題」として読み替え、「指導のポイント」を「練習時の注意点」として活用してください。客観的な視点で自分の演奏を分析し、段階的な習得を心がけることで、より効果的な学習が可能になります。
► 知っておくべき技術的変化点
‣ 1. 両手での声部受け渡しへの対応
変化点
シンフォニアでは、必ずしも「右手=上段」「左手=下段」ではなく、楽譜上の段と実際の演奏する手が一致しないケースが頻繁に現れます。上段の音を左手で、下段の音を右手で演奏する箇所が出てきます。
J.S.バッハ「シンフォニア 第1番 BWV787」
譜例(PD楽曲、Sibeliusで作成、曲頭)
2小節目では、カギマークで示した上段部分を左手で演奏することになります。使用する楽譜によってはこういったことを学習者が判断して演奏方法を決定していかなければいけません。
指導のポイント:
・楽譜を読む際に「上段=右手、下段=左手」という固定観念を捨てることから始める
・楽譜を「段」ではなく「声部」で読む習慣を徹底する
・はじめに運指の検討を丁寧に行い、どの手がどの声部を担当するかを明確にする
・声部の受け渡しポイントでデコボコ・ギクシャクしないように意識する
‣ 2. 替え指技術の必要性
変化点
インヴェンションでは比較的単純だった運指が、シンフォニアでは替え指なしには演奏困難な箇所が急増します。片手で多声を表現しなければならない箇所の多出が主な要因です。
J.S.バッハ「シンフォニア 第1番 BWV787」
譜例(曲頭)
指導のポイント:
・替え指の基本原理(同一鍵盤上で音を途切れさせずに指を交代する技術)を習得する
・替え指が必要な箇所を事前に楽譜上でマークし、運指を書き込む習慣をつける
・レガート奏法維持のための替え指(譜例の「5-4」の箇所など)も指導する
‣ 3. テンポ設定の変化
変化点
インヴェンションの急速な楽曲(4番、8番、10番など)に対し、シンフォニアでは全体的に中庸なテンポの楽曲が中心となります。これは3声の複雑さが演奏可能速度を制限するためです。
各シンフォニアの推奨テンポ
以下のテンポは、J.S.バッハ研究で著名なヘルマン・ケラーが著書「バッハのクラヴィーア作品」の中で提案している推奨テンポです:
楽曲番号・BWV | 調 | 推奨テンポ |
---|---|---|
第1番 BWV787 | ハ長調 | ♩= 69 |
第2番 BWV788 | ハ短調 | ♩. = 63 |
第3番 BWV789 | ニ長調 | ♩= 76 |
第4番 BWV790 | ニ短調 | ♩= 54 |
第5番 BWV791 | 変ホ長調 | ♩= 48 |
第6番 BWV792 | ホ長調 | ♩. = 84 |
第7番 BWV793 | ホ短調 | ♩= 56 |
第8番 BWV794 | ヘ長調 | 未提案 |
第9番 BWV795 | ヘ短調 | ♩= 46 |
第10番 BWV796 | ト長調 | ♩= 96 |
第11番 BWV797 | ト短調 | ♩. = 44 |
第12番 BWV798 | イ長調 | ♩= 84 |
第13番 BWV799 | イ短調 | ♪= 108 |
第14番 BWV800 | 変ロ長調 | ♩= 54 |
第15番 BWV801 | ロ短調 | ♪. = 72 |
どの楽曲も「緩やか〜中庸」の範囲に収まっていることが分かります。
指導のポイント:
・「3声の均衡」を優先させる指導を行う
・各声部の独立性を保ちながら演奏できる適切なテンポを生徒と共に見つける
・急速でない代わりに、できる限り理想のテンポに近づくことを合格条件の一つとする
参考文献:
・バッハのクラヴィーア作品 著 : ヘルマン・ケラー 訳 : 東川 清一、中西 和枝 / 音楽之友社
‣ 4. イレギュラーな音符処理への対応
変化点
同音の連続におけるタイの処理、予期しないタイミングでの音の処理など、インヴェンションでは稀だった複雑な音符処理が日常的に現れます。
J.S.バッハ「シンフォニア 第1番 BWV787」 同音の連続におけるタイの処理
譜例(19-20小節)
ここでは、レッド音符からタイが伸びているため、ブルー音符を「タイが付いている8分音符」として演奏します。
J.S.バッハ「シンフォニア 第1番 BWV787」 予期しないタイミングでの音の処理
譜例(5-6小節)
6小節目にカギマークで示した部分は、上段のうち一つの音のみを左手で拾わないと前後がつながらない例です。
指導のポイント:
・入門「シンフォニア 第1番 BWV787」に基本的な問題点が一通り出てくるので、この段階で指導する
・音の重複や交差箇所などでの適切な処理方法を具体的に示す
・とにかく運指を徹底し、書き込む習慣をつける
‣ 5. 片手内多声表現技術
変化点
一方の手の中で複数の声部を同時に演奏する必要が生じ、指の独立性と表現力の両立が求められます。2声のインヴェンションでは1手1声の担当でしたが、3声のシンフォニアでは2手で3声を表現しなければならないので、この技術は必然的に生じることになります。
J.S.バッハ「シンフォニア 第1番 BWV787」
譜例(曲頭)
2小節1拍目は左手パート内で2声、2-4拍目は左手パート内で2声を表現します。
指導のポイント:
・片手内での音量バランス調整への意識を徹底する
・必要に応じて、その箇所での最重要パートに目立つ印をつけて、意識を外さない工夫をする
・音源を聴きながら「特定の声部 “のみ” を耳で追って聴き続ける練習」をする
‣ 6. 3声構造特有の課題:声部の認識と追跡
変化点
3声のうち1つまたは2つの声部が休止している際に、現在演奏している音がどの声部に属するかを常に意識する必要があります。
J.S.バッハ「シンフォニア 第15番 BWV801」
譜例(14-16小節)
譜例部分の右手パートを弾いている時に、「何となく弾く」のではなく:
・「今弾いているのはアルトですよ」
・「今弾いているのはソプラノではありませんよ」
と強く意識しながら譜読みをする必要があります。特に16小節目のような高い音域まで上がってくる箇所ではソプラノのようなつもりで弾いてしまいがちです。
指導のポイント:
・紛らわしい部分では、各声部に「声部名付け」もしくは「色付け」を実施して意識化を図る
・休止声部がある箇所では、譜読み段階から「今弾くのはどの声部か」を確認させる習慣をつける
・声部の出入りが複雑な楽曲では、楽譜分析の時間を十分に取る
► 全曲への応用について
本記事では主に「シンフォニア 第1番 BWV787」の譜例を用いて解説しましたが、ここで取り上げた技術的課題は第1番に限定されるものではありません。声部の受け渡し、替え指技術、片手内多声表現、声部認識など、これらの要素はシンフォニア全15曲を通じて頻繁に現れる共通の課題です。
他のシンフォニアでも同様のアプローチを適用することで、より効率的で体系的な学習が可能になります。各楽曲の個性を尊重しながらも、ここで示した基本原則を一貫して活用してください。
► まとめ
シンフォニアへの移行において、生徒がこれらの新しい課題に段階的に取り組めるよう、インヴェンションで培った基礎技術を土台としながら、3声特有の技術と音楽的理解を丁寧に指導することが重要です。必要に応じて、譜読みをするよりも前の段階でのレクチャーが必要になるでしょう。
各生徒の習得状況に応じて、これらの要素を段階的に導入し、無理のない進度で確実な技術習得を目指しましょう。
シンフォニアに入門した後の具体的な練習アプローチ
以下の記事は「フーガの譜読み」の解説記事ですが、シンフォニアの練習にも広く応用できます。
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